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Yamasaki Rinko

《内なる異性Vol.2》自我とペルソナとアニマ・アニムス。男女2人の話し合いは6人の話し合い。

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「類は友を呼ぶ」というのはよく聞きますが、それとは反対に、自分に合わないタイプの人がよく一緒になる、というのもひとつの真理です。何十人もの人が自由にペアを組んだとき、一見似たもの同士と思われても、内面をよく知っていくと性格の相反する者同士が組んでいることは珍しいことではありません。また夫婦関係においては、さらに明確にこのことが言えるのではないでしょうか。ディズニーの「美女と野獣」などは人間の真理を表している映画だと言えるかもしれません。

 
人間には無意識的に補い合う働きがあります。何人かの仲良し女子グループを見ていると、自然に男性的な振る舞いをする女子が出来上がってきます。夫婦も同じで、互いに相補性が働き、またそれは自分の状態によっても相手の状態によっても変動します。しかしながらユングは、外的世界の関係性よりも、まず一人の人間の心の中に相補性が働くことを指摘しています。

 
一人の人間が一面的になるとき、それを補うような傾向が無意識的に形成されます。常に盛り上げ役の明るい快活な人が、実は些細なことでよく悩む傾向だったり、普段強気な人がお酒を飲んで酔うと泣き始めるという傾向は、相補性をもった無意識の作用が働いているのかもしれません。

 
ユングはこんなふうにも言っています。
「実際私たちは、自分の行動が自分の影のような存在によって律せられていると感じることがある。そんなつもりではなかったのに争ってしまったり、嘘をついてしまったり、要らぬことを言ってしまったりする。こんなとき、私たちの行動の主体は意識ではない『影=無意識』なのではないだろうか。」と。

 

 

 

 

心理学において「自分とは何か」というのは命題です。「自分」というものを明らかにしようとするとき、必ず“自分以外のすべて”を明らかにしなければ自分を証明できないからです。なぜ私は生まれたのか、私は何のために生きるのか、人生とは、人間とは…という答えの見つからない問答を自分自身と始めることになります。いかなる人にも「自分が思っている自分」というものがあり、それを「自我」と言います。私は~な人間である、私は~が好きである、私は~をしている、という意識的に思っている自分です。

 
そして意識的に思っている自分の中に「ペルソナ(仮面)」の自分がいます。ペルソナは社会から与えられている期待に応えようとしている自分で、世間に対して向けている表看板、仮面のことを言います。これは自我を外的世界と関連付ける必要不可欠な心理機能で、ある程度のペルソナがなければ、現実の中で生活していくことができません。後ろに隠れる仮面ではなく、外的世界に適応していくための手段です。もしペルソナがなかったら、他人や仕事や社会が突きつけてくる様々な要求に対し、関係していくことが困難になります。

 
それは「人は常に何かを装っている」と言うことができます。自分が思っている自分とは“違う自分”を演出しています。例えば、自分はスーツを着たくないと思っていても、通勤のとき当たり前のようにスーツを着るのは、社会から与えられたイメージがあるからです。家ではぶっきらぼうでも、一歩外に出るとにこやかに挨拶をするのも社会生活を営むための装いです。私たちは常に、その職業人らしく、母親らしく、男らしくなど、その場にそぐわしい常識人であろうと、自分を演出しています。

 

 

ただ問題は自分自身とペルソナを同一化してしまったときです。そのとき私たちは外の世界に向けて見せている表看板の顔が、そのまま自分自身であるかのように思い込み、人格の半面である暗い影の部分を自分自身の真の姿にしてしまいます。ペルソナそのものとなってしまった人間は、もはや自分自身を見失い、内的世界に欠けた、顔だけの人間になってしまいます。アニマ・アニムスは、このペルソナと相補的な関係にある存在です。私たちが過度にペルソナと同一化してくると、彼らが働き出します。ペルソナとほどよい関係を保つときのみ、私たちはアニマ・アニムスともほどよい関係を持つことができます。

 
例えば、強力な圧制者であったヒットラーを思い浮かべてください。彼は言葉を巧みに操ることで、多くの人々の運命を左右しました。その権威は絶大だったため、彼自身、自分のことを全能者であると思い込んでいたに違いありません。しかし、そういう人間にかぎって、心の内側では制御不能な恐ろしい幻想に悩まされています。常に恐怖に怯え、物陰という物陰を疑い、荒れ狂う自分自身の不機嫌を前にして手の施しようがないのです。

 
こうした男性の気分の中に、不安や恐怖の幻想を生み出し、眠れぬ夜をつくり出しているのはアニマです。男性は外的世界を処理する能力が絶大であればあるだけ、そのぶん内部から押し寄せる不安に対して無力なのです。アニマはこのようにして、性格の偏った一面性に対して常に補償をしています。

 

 

 

 

ユングは「私はアニマ・アニムスを、無意識一般の擬人化されたものと定義しており、したがってアニマ・アニムスとは無意識へ架けられた橋、つまり意識と無意識とを関係づける機能であると考えている」と述べています。

 
つまりアニマ・アニムスにとって最も重要なのは自己との「関係性」です。それらは他のいかなるものを排除してでも関係性をつくるべきで、私たちの人生から消え去ることのないパートナーです。「自我・ペルソナ=意識」と「影=無意識・集合無意識」の「架け橋」として、欠くことのできない存在です。とすれば、男女2人の話し合いは、それぞれの自我とペルソナとアニマ・アニムスという、6人が話し合いを行なっているということになります。

 
私たちは話し合うとき、自我を包み隠さず話すことは困難です。人は健全な社会生活を営むために、自分が他人にどう思われているか、常に評価を気にしています。常識的な人であろうとしてペルソナが現れると、感情を隠し、道徳的な意見になり、一面的になろうとします。そうして自分を正当化しようとし、正義の闘いになります。そこへ個人における相補性と、関係性における相補性としてアニマ・アニムスが話に加わり、男女の揉め事はより複雑化することがあります。

 
ただ、アニマ・アニムスは否定的な側面だけではありません。どのようなアニマ・アニムスであれ、本質は説教的な機能で、自分の内なる価値を知ろうとしない男性や女性たちに生き方の変更を求めています。自己の全体と魂の成長を求める道に連れ戻すのがアニマとアニムスの努めです。もしその存在が正しく認められると、彼らはすぐに肯定的な側面を表します。彼らは常に自己に忠実です。無意識とつながり、自己の意識とつながることが、アニマ・アニムスの根本的な機能です。

 

 

 

 

意識は言語を扱います。無意識は非言語な部分、つまり前提や体の感覚、体表現、空間、物質、エネルギーなどを指します。この言語の世界と非言語の世界をつなぐ「橋」が擬人化されるために、非言語な感覚が言語化されているのかもしれません。そのため私たちは思いもよらないことを発言したり、自分で不可解な行動をとったりすることがあるのかもしれません。その言動が良いか悪いかは別として、どういう作用でそのようなことが起こっているのかを知ることは、人間として意義深いことです。

 
もし私たちがアニマ・アニムスの存在を知らなければ、自分自身が不可解で、解決でき得る問題に気づかず人間関係をこじれさせてしまう恐れがあるからです。それだけでなく、自分自身がうまく機能しなくなり、自分で自分を破滅へと追い込んでいく可能性もあります。アニマ・アニムスの否定的な側面と肯定的な側面を知り、それぞれの役割りにおいてどのように関わっていくかを学ぶことは自己の発展につながります。無意識的なものを無意識のままにせず、意識化すること。これが意識の拡大、関係性の拡大、自己成長への道であると考えます。

 

 

 

 

ー参考文献ー
内なる異性/エンマ・ユング
人間と象徴/C・G・ユング
元型論/C・G・ユング
見えざる異性/ジョン・A・サンフォード
昔話の深層~ユング心理学とグリム童話/河合隼雄
ギリシャ神話入門/長尾剛
ユングの世界/E・A・ベンネット

 

 

 

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